世界平和記念聖堂のドローン映像

共感できる友に

シスター 小野島 照子

 私は今夏、私の出生の恵みと神との出会いと今の生活への招きを回顧するチャンスを得て感謝しています。
母が私を身ごもった時、父の仕事の関係で、東京から台湾へ転勤。第二次世界大戦中で、母の実家では「子供を出産してから台湾に渡るよう」母に勧めた。しかし、母は1年10か月上の東京で生まれた息子がいるので、次の出産後に二人の子を連れて台湾に渡るのは不安だから、父と一緒に妊娠中に台湾に渡り、私を台南で出産した。戦争中、単身二人の幼児を連れて台湾に渡るのは困難だった。母の実家は広島の八丁堀。原爆ですべてを失い、母の妹は爆死。もし、広島に残っていたら、戦争も激しくなり台湾へ渡ることはできなかっただろう。台湾で私が生まれたので父は私と9か月間一緒に過ごして戦地に送られた。
 戦争が終わり、原爆投下6か月後に、私たち親子3人は台湾から広島に引き上げ、私は3歳2か月だった。焼野原の広島での生活は、幼い私には理解も表現もできなかった。後で思い出すイメージは、楽園から廃墟に転落した感じ。被爆者の中ではよそ者扱いをされる存在でした。
それでも子供ながら生き残った祖父母と母を見習いながら一生懸命近所の被爆者達を助けました。私はどんなに頑張っても被爆者にはなれない。疎外された人々に共感する呼び掛けをこの時からいただき、これが援助修道会に引かれる原点になったのでしょう。
 フィリピンで独裁者の圧政と貧困に苦しむ人々と連帯して生きた10年間、同じような心境を広島で味わったと気付きました。どんなに頑張っても被爆者にはなれなかったように、どんなに連帯活動をしても私はフィリピン人にはなれないけれど、共感できる友になるように導かれ、そこから先は神様の出番なのです。
 今も広島にあって、深いトラウマを抱えている人々が、教会を訪ねて来られます。傾聴の限界を感じつつも、「神様、あなたの出番です」と毎晩祈り、その日に出会った人を神様に託します。